![]() 葉山の思い出・その五 昭和十八年〜二十四年にかけて、足かけ七年六ヶ月ほど神奈川県の葉山で暮らしました。戦時中から終戦後の混乱期にかけて日本国民が苦しい耐乏生活を強いられている時期にこんなことを申し上げるのは大変に不謹慎だとお叱りを受けるかと存じますが、私にとりましては、毎日が充実した楽しい日々でございました。食べる物ひとつとりましても、とても恵まれた環境にあったと存じます。 もともと当時の葉山は海の幸、山の幸が豊かな上に、戦時中は私どもの別荘の近くに日本陸軍兵舎がございまして、そこの兵隊さんから度々、お醤油やお味噌をいただいて大助かりしたのでございます。それに、家から数分のところに大きな牧場がございまして、そこから一升ビンにいっぱい詰めた牛乳を何度もいただいたのでございます。当時は、牛乳も割り当て制で一日に牛乳ビン二本と決められておりましたので、育ちざかりの子供を抱えた身にとって何物にもかえがたいほど貴重であったのでございます。特に次男の孝之(現、六代目助七)は、病弱でお医者さんから牛乳を沢山飲ませるようにと言われておりましたので、牧場の牛乳は涙が出るほど有り難かったのでございます。 そのころ、こんな触れ合いもございました。歩いて十分ほどのところに、通称、三軒目といわれる農家がございました。そこのご主人も奥さんも大変に親切で、気さくな方でした。いつも買い出しで伺っていたのですが、一度として嫌な顔をされたことがございませんでした。ある日、ご夫婦で畑仕事をしているときに奥さんの野良着があまりにもボロボロで見すぼらしく感じましたので、新しく縫って差し上げたことがございました。ついでにご主人にも開襟シャツを縫ってプレゼンと致しました。 それ以後とても懇意になって、お互いの家に行き来するようになったのでございます。年の暮れには、家族で餅つきに招かれてアンコ餅やからみ餅などおいしいお餅を沢山いただいたり致しました。子供達も餅つきが珍しいのか、ご主人にせがんで餅つきにチャレンジ致しました。広い農家の庭には、放し飼いのチャボ鳥が何羽もいて、卵があちらこちらに生み落とされておりました。次男の孝之は、今でもその光景が目に浮かぶと懐かしんでおります。 私もしばしの追憶にふけることと致しましょう。その思いでの一片は、件の農家で買ったサツマイモ。戦後は農林一号と呼ばれ、一世を風靡したあの太くて大きなサツマイモ。このサツマイモは、通常は蒸かしたり、あるいは乾燥イモにして食べるのが一般的でしょう?私は、少し工夫してみたのでございます。蒸かしてカラカラに乾燥させたサツマイモを製粉所に持ってゆき、粉末状にしてもらったのでございます。この粉を水で練ってパン粉を加え、サツマイモパンを作ったのでございます。イモパンの中には小豆のアンコを入れました。できたてのサツマイモパンをご近所に配ったり、子供達にオヤツがわりに与えましたがとても喜んで食べてくれました。こんな些細なことも、つい昨日の出来事のように思い出すのでございます。 (つづく) ![]() 葉山の思い出・その四 葉山の別荘から100メートルほど離れたところにアメリカの進駐軍の宿舎がございました。宿舎は、戦時中、日本の警備隊が使用していたもので、いかにも兵舎らしく、灰色の地味な建物でしたが、進駐軍の宿舎になってから、その様相は一変したのでございます。白、青、緑等のペンキを大胆に塗りたくって、まるで遊園地に来たような錯覚を覚えたものでございます。 この宿舎から毎日のように昼の休憩時間になりますと大勢の進駐軍の兵隊さんが大皿とスプーンを鎖でつないだ食器を手にしたり、腰にぶら下げたりしながら、ガチャガチャと金属音を響かせて私たちの住む別荘にやってきたのでございます。とにかく、アメリカの兵隊さんは明るくて気さくな方ばかりでございました。ガヤガヤと十人前後で連れ立ってやってくることが多いのですが、そんな時は、日本人二世の通訳が必ずと言っていいほど同行致しました。 あるとき、将校らしき兵隊さんが我が家にやってこられて、若いお手伝いさんを貸して欲しいと頼まれたことがございました。しかしこの通訳さんから婉曲に断っていただいたので安堵したこともございました。また、週間の違いからか、家の中にも靴も脱がずに入り込んでは、ダンスをさせてくれとせがまれたことも何度かございました。別荘には、主人(五代目助七)が大切にコレクションしていたレコードが沢山置いてありました。外国製の蓄音機もございました。兵隊さん達は、ルンバやタンゴ、ラテン系のレコードを取り出しては蓄音機にかけ、踊りに熱中しておりました。私も請われて一緒に踊ったこともございました。そうかと思えば、男同士でステップを踏んでは、指を鳴らしたり、笑い転げたり、まったく陽気な兵隊さん達でした。 このようにとても気さくな連中でしたので何でも遠慮せずにざっくばらんに頼み事をするようになりました。 「軍服の記章がとれたから付けて欲しい」 「ズボンにアイロンをかけてほしい」 「継ぎをあててほしい」 など、さまざまな依頼があったのでございます。特に土曜日は休日で、兵隊さんが遊びに出かけるので、前日はてんてこ舞いの忙しさで徹夜をすることもしばしばございました。 そのお礼の意味とでもいうのでしょうか、兵隊さん達からは実にさまざまな物を頂戴致しました。石けんや歯ブラシのような生活用品からビスケットやパン、缶詰などの食料品にいたるまで十分すぎるほど頂きました。食糧難の時代でしたから、これはずいぶん助かりました。なかでも、パンの耳などは、アメリカの兵隊さんは食べなかったので、どっさりと持ってきてくださいました。家では食べきれなかったので、当時飼っておりました庭鳥にやったりしておりました。 生活用品や食料品などもご近所の方に分けて差し上げたかったのですが、米軍の規則で公には軍の物資は民間人に渡してはならない事になっており、お裾分けすることが出来なかったのでございます。勿論、私も品物ではいただきましたが、現金は一切受け取りませんでした。現金収入を得るには、また別の苦労と知恵が必要だったのでございます。 (つづく) ![]() 葉山の思い出・その三 その大ヒット商品の名前は千両漬といいました。その頃(昭和二十年〜二十三年にかけて)は大変な食糧難で、栄養失調などという言葉が日常茶飯事のように使われていた時代でございます。私も葉山の住まいの庭を耕して畑を作ったのでございます。今で言うところの家庭菜園ですわね。キウリ・トマト・ダイコン・ニンジン・ナス・カボチャといった具合ですが、なかでもカボチャは、葉山の土によく馴染んだせいかとれすぎるほどの収穫がございました。それと運よくと言いますか、土の中には味りんを沢山埋けておいたのでございます。そこで考えましたのが、しいたけ・にんじん・大根などを刻んでそれをよく塩もみして混ぜ合わせて、さらに酒の粕を混ぜ合わせておいしい漬物をこしらえたのでございます。 主人にも味見をしてもらったところ「これはいける」と言って、この漬物に「千両漬」という商品名をつけてくれました。さらに絵心のあった主人は、手作りのパンフレットに千両漬の絵を描いてくれたのでございます。さっそく、サンプルをご近所の皆さんに差しあげたところ大変に喜んでいただいたのでございます。これが評判を呼んで、鎌倉や逗子からも千両漬を買いに来てくださるお客さまがあとを絶ったことはなかったのでございます。 終戦直後のお話を致しましょう。葉山の別荘暮らしは昭和十七年から昭和二十三年まで足掛け七年ほどになるのですが昭和二十年九月から十一月にかけて約三ヶ月ほど奥多摩に住んだことがございます。終戦前までは、私の住んでいた葉山の別荘近くに日本陸軍の兵舎がございました。それが終戦直後のある日、役場から「明日日本陸軍の兵舎跡にアメリカ軍が進駐するので子供と女性ばかりの渡辺さんの家は、何が起こるかわからないから立ち退きなさい」といわれ、急遽トラック一台借りて、一昼夜かけて奥多摩に逃れたのでございます。 そもそも奥多摩を選んだのには理由がございました。戦時中から戦後にかけて炭が極度に不足して入手困難な時代が続きました。そこで主人は奥多摩の炭焼き職人に頼んで炭焼きの技術を学び、後に自分で炭を焼くようになったのでございます。青梅線の川井駅から四キロほど入ったところに炭焼きの小屋を持っていた関係から、その縁で駅のそばに私達一家は間借りして住むようになったのでございます。 奥多摩の秋は、今から考えれば美しかったはずですが、景色を愛でる余裕などなく毎日の糧を都合つけるのに苦労した日々が続いたのでございます。十月、十一月ともなれば朝晩は肌寒くひもじさも募ります。そんな状況に追い打ちをかけるように家に泥棒が入って大切な家財道具を盗まれてしまったこともございました。そのような災難にもあいましたが、十一月中旬頃になって葉山の知人から「進駐軍は危害を加えないし、親切だから大丈夫ですよ」とのお便りをいただき、さっそく荷物をまとめて葉山に戻ってきたのでございます。 それからの生活がさあ大変!二百人ものアメリカ兵を相手に女学校時代にリーダーで習っただけの英語を使って縫い物をしてさしあげたり、プレスしてさしあげたりと忙しいけど楽しい生活が再スタートしたのでございます。(次回へ続く) 葉山の思い出・その二
![]() 葉山に疎開していた頃の思いでを語る時にどうしても忘れ得ぬ恩人がございます。岡田長治郎様がその方です。岡田様とのそもそものご縁は、私の故郷である京都の実家(白味噌醸所・本田屋)の次兄から始まったのでございます。実家の商売柄、味噌を入れる樽が必要で、それを次兄が当時(昭和初期)京都の伏見で豊乃雪という酒蔵を経営していた岡田長治郎様から購入していたのでございます。 その頃、私の主人(五代目・渡辺繁三)は東京の新川から廉価な酒を仕入れ、それを別の味の良い銘柄の日本酒とブレンドして、お店に出しておりました。主人は滝野川の醸造試験場で日本酒について勉強しておりましたので、お酒については一家言持っておりました。 こんなエピソードもございます。ある時、東京の山田五郎助商店が開催した利き酒の会で並みいるプロの方を相手にして見事二等賞を獲得し、免許状をいただいたりしたこともありました。そんな経験もあってか、いつも頭の中に、安くておいしいお酒が欲しいなーと思っていたおりに「繁さん、京都に豊乃雪というおいしい酒があるよ」と声をかけてくれたのが私の次兄で、それが岡田長治郎様を存じ上げるきっかけとなったのでございます。 岡田様は、哲学社のように深みのある人格者で、信念の人であり、主人も最高の人物であると尊敬し、二人ともすっかり意気投合してしまいました。現在も、次男の孝之(六代目)をはじめとして家族をあげてお世話をいただいている大楠窟春見文勝老師(現妙心寺管長)も、岡田様を通してご紹介していただいたのでございます。岡田様のご趣味は詩吟でしたが、老子様の影響お受けになったのでしょうか、禅宗にもなみなみならぬ関心と造詣の深さをお持ちでした。 その岡田長治郎様が終戦後のまだ混乱していた昭和二十二年の春に京都からわざわざ列車にゆられて葉山の地まで疎開見舞いだとおっしゃって訪ねてくださいました。頭髪も、まつげまですっかり白くおなりでしたが相変わらずの精悍なお顔で、とてもお元気そうに見受けられました。 葉山での買い出し生活のことなどあれこれとお話ししていると、岡田様の頭に何かひらめくものがおありだったのでしょうか、「酒粕を売ったらどうですか」とお話しになりました。その時は、あまりの意外なお申し出に、それが果たして売れるものなのかどうか、さっぱり見当もつかずに「そうですわねー」と私は曖昧な返事をしてしまったのでございます。ところが、岡田様が今日の伏見にお帰りになってから数日後に本当に大樽で酒粕が送られてきたのでございます。これには、何事にも驚くことが少ない私もビックリ致してしまいました。 当初は、その酒粕をどう利用したら売れるか解らず、板粕のままで販売致しました。当時は食べ物が少なかった時代でしたから、この酒粕に砂糖醤油をつけただけでも結構おいしいと喜ばれたものでございます。その板粕も全部売り切れになるころ、再度岡田様から大樽が届きました。中を開けてみると、今度は酒粕は板状ではなく、踏み込み味噌風になった酒粕がぎっしりと詰められていたのでございます。これを見て、私にもピンとくるものがございました。このヒントから、実は、大ヒット商品が生まれたのでございます。それを次回にお話しさせていただきます。(次回へ続く) ![]() 葉山の思い出・その一 昭和十七年から昭和二十二年にかけて、七年ほど湘南の葉山で暮らした時期がございました。次男の孝之は、子供の頃は病弱で、病院生活では治らない、転地療養するしか回復の道はないとお医者様からすすめられて葉山に参ったのでございます。 昭和十七年といえば、ちょうど太平洋戦争の最中で、結果的には疎開になってしまいました。この年は、アメリカ軍の戦闘機による日本本土初空襲のあった年で、防空予行演習の日には、あちらこちらでゲートル巻きの殿方や白はち巻き姿のご婦人達を沢山見かけるようになりました。そして昭和十九年には、あのB29戦闘機による空襲が定期的にはじまり、一日たりとも安眠のできる日は無かったのでございます。 駒形どぜうをこよなくご贔屓にしていただいた作家の永井荷風先生は、当時の世相についてこんな風に表現なさっていらっしゃいます。 「およそ、このたび開戦以来、民衆の信条ほど解しがたきはなし。多年生活せし職業を奪われ、微集せらるるもさして悲しまず、空襲近しといわれても、また、さらにおどろきさわがず、何事の起こりきたるも、ただ、なりゆきにまかせて、寸暇の感激をももよおすことなきが如し。かれらは、ただ、電車の乗り降りに必死となりて先を争うのみ。これ現代一般の世相なるべく、まったく不可能なり」(昭和十九年三月二十四日、永井荷風の日記『偏奇館焼失』より) 荷風先生は、このように当時の世相を冷静に観察なさっていらっしゃいますが、庶民は疲れ果てて、もはや絶望的で諦めの境地にあったのかも知れません。 翌、昭和二十年の三月十日。東京大空襲により駒形どぜう(越後屋)も全焼。東京は焼野原となってしまったのでございます。当夜、私は葉山の家でラジオを聞いていたのですが、突然ラジオのアナウンスが切れてしまったのでございます。外へ出てみると東京方面の上空が夕焼空のように明るくなっているではありませんか。 翌朝、心配になって、何とか東京の様子が知りたくなり、逗子まで歩いて行きました。人づてに逗子には伝書鳩を飼っている人がいて、その人に頼めば鳩を飛ばしてくれるのではと聞いていたので、祈るような思いでここまでやってきたのでございます。その方は、富士見橋の近くに住んでいて、見ず知らずの私の頼みを心から聞き届けてくれて、東京まで、無料で伝書鳩を飛ばしてくださいました。あの時ほど人の情けの有難さを感じたことはございません。おかげさまで、駒形どぜうは全焼しましたが、主人をはじめ従業員全員も皆無事であるとの消息がわかり、安堵したのでございます。 (戦後、世の中が少し落ち着いてから、伝書鳩を飛ばしてくれた親切なお方にお礼を申し述べようと富士見橋までお尋ねしたのですが、そのようなお宅はございませんでした。近所の人に伺っても消息はとうとうわかりませんでした。残念でなりません。きっと、どこかでお元気にお暮らしになっていらっしゃることを心より願っているのでございます。) 東京大空襲から数日後、従業員が全員葉山に参りました。それからが大変でした。私は縫い物をやったり、農家に買い出しに出かけたり、てんてこ舞いの生活がはじまったのでございます。(次回に続く)
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