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どぜう往来 十二号 [昭和六十一年二月発行] 助七思い出話 五代目 越後屋助七(渡辺繁三)

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第十二話 「久保田万太郎先生のこと(三)」

久保田万太郎先生が亡くなられたのは、昭和三十八年五月六日のことです。三社祭まであと11日を残すだけでした。実は、この11日間こそ、私にとっても家内にとっても生涯忘れることができない痛恨の日数なのです。

 先生は亡くなられるまで、毎年決まって三社祭の日に駒形どぜうにおいでくださいました。浅草を誰よりもこよなく愛した万太郎先生は、三社祭を浅草ッ子の若者と同じように心待ちにしていたようでした。浅草ッ子ならば誰でも同じだと思いますが、祭りが近づくと仕事が手につかなくなります。「セヤ!セヤ!セヤ!」の威勢のいい掛け声が波のうねりのように耳の奥から自然と聞こえてくるのです。

 その頃になると家内も家業のほかに三社祭の日に着る浴衣作りで夜なべの日が多くなります。家族の浴衣を作るだけでなく、万太郎先生のも手作りで縫い、三社祭の度に差し上げるのが、いわば習わしのようになっていました。家内は毎年、色や柄をあれこれと考えて作るのですが、面倒がらずにむしろ楽しむ方でした。ところが、前述したように昭和三十八年の三社祭には、先生にその浴衣を着てもらうことができなかったのでした。わずか11日間、命の燈し火が届かなかったのです。このことが生涯の痛恨事なのです。ただ、せめてもの気持として納棺のとき、先生の亡骸に家内が心を込めて作った浴衣をお着せできたのが、僅かばかりの慰めでした。

 その時、私は胸の内で「先生、安らかにお眠りください」と合掌したが、やはり無念の気持と慟哭を抑えることができませんでした。そして、私は先生が亡くなられてからしばらくのあいだ気落ちしていたが、あんなに駒形どぜうを贔屓にして頂いた先生に、なにか感謝の気持を表す方法がないものかと、ずーっと考えていました。そなときに、ふと頭に浮かんだのが句碑を店の前に立てることでした。

 これならば後世まで感謝の気持を伝えることができると信じ、さっそく準備にかかったのです。そして、昭和四十一年五月十七日の三社祭の日に句碑を建立しました。句碑に揮ごうして頂いたのは、今は亡きアンツルさんこと、名随筆家としても知られた安藤鶴夫先生でした。句碑にはこのように刻まれています。

  神輿まつまのどぜう汁すすりけり
 「久保田万太郎先生は市井の人を愛し、とくにまた故郷を同じくする浅草ッ子を愛した。 ここに駒形どぜう 越後屋 五代 助七 その生前の厚誼をしのんで先生を慕う情は まことに涙ぐましいものがあるが 昭和四十一年初夏 この句にゆかりの三社祭の吉日に当たって 駒形どぜうの店の前に いま先生の句碑を立てる 旧称田原町三丁目なる先生の生家に 最も近くこの句碑の立てられたことは さだめし先生も喜ばれていることと思われる ここに謹んでこれをしるす者はおなじ浅草ッ子のひとり
                      昭和四十一年五月十七日 安藤鶴夫」
by komakata-dozeu | 2009-09-01 10:00 | どぜう往来
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