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どぜう往来 三十五号 [平成三年十一月発行] 助七思い出話 五代目 越後屋助七(渡辺繁三)

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私の生まれたころ

 私が生まれたのは、ちょうど丙午にあたる明治三十九年八月十一日でした。丙午は昔から大火災や洪水が多く、厄年になると言われています。はたしてそうなのか、私は当時の世相が知りたくて文献を調べてみたら、いろいろと革新的な出来事が多かった年であることが分かりました。

 日露戦争の終わった翌年で、概して天下泰平でありました。それでも厄年を避けたい親心か、同年の女子の出生届数は前年の718,866人、翌年の799,941人に対して670,435人とかなり少ない。ところが、そんな迷信を嘲笑うかのようにこの年の女性の地位向上と元気溌刺さが特に目立つのです。例えば、同年の七月二十四日には、逓信省で女性を「判任官」に登用しており、同月には女学生の富士登山が顕著であると当時の新聞は伝えています。

 また、ちょっと変わったところでは日本一の婦人月給取のニュースも当時の新聞種になっています。当時の女子事務員の日給が四十銭前後だったのに比べ、華族女学校教学監の下田歌子女史は年俸で五千円もらっていたそうです。ちなみに、翌年の明治四十年には、東京の芝公園で日本で最初の婦人博覧会も開催されているのでした。女性の時代の幕開けとでも言えます。なお、女性とは特に関係が深いわけではないが、この年の十月二日の東京朝日新聞によれば、神田一ツ橋に「日本エスペラント協会」が創立され、月刊の専門雑誌も発行されて大変に流行したと伝えられています。

 それでは、その当時の駒形どぜうの様子はどんな風であったのか、フランス文学者の高橋邦太郎先生の「花園町雑記」から抜粋してみます。

「“牛鍋”が“すきやき”に格上げされて、いやにお高くとまっているのに比べると、われわれ庶民には“どぜう鍋”がいつまでも“どぜう鍋”であることがうれしい。(中略)…万事、庶民的なところが、しんみょうである。」と書かれています。

 また、明治四十四年発行、若月紫蘭著『東京年中行事』には「駒形どぜう汁」。

「雷門から南へ次の電車停留所が駒形である。そこの四辻の北の角が、音に名高い駒形のどじょう汁で薬研堀のそれと盛名を競うものである。その昔、江戸時代にはどじょう屋と云う看板を掲げたのは、上の二つと埋堀と中橋のそれとたった四つであったが、後の二つは今では廃業してしまって、残った二つの中でも殊に駒形のが知られている。暖簾をくぐって座敷に上がると、百年記念明治四十年十月と云う額が先ず眼につく。お客はどちらかと云えばもちろん中流以下が多いのであるが、生粋の江戸っ子や、その道の通人などの間にもなかなかお馴染みが少なくない。何はさて置き、値段の安いのが目っけもので、どじょう鍋六銭、どじょう汁一銭五厘、お酒七銭、御飯一人前四銭、半人前三銭と云うほかに、鯨汁二銭五厘、鯰鍋十五銭と云うのもある。従って鍋と汁とに飯と酒までつけた処が二十銭足らず、飯と汁だけですませばたかが六、七銭でことが足るので、飯時分前後になると、朝から車夫行商人を始めとして、色んな種類の人がエンヤエンヤと詰めかける。…」

 今も、昔もお客さんとは有難いものです。
by komakata-dozeu | 2011-08-01 10:19 | どぜう往来
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