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どぜう往来 2号 [昭和五十八年七月発行] 助七思い出話

どぜう往来 2号 [昭和五十八年七月発行] 助七思い出話_f0193357_19522944.jpg第二話 「泥鰌大研究」

終戦後間もない頃、駒形どぜうもまだ焼け跡に仮店舗を構えていた頃の話である。
私の兄(得治郎)の友人に連れられて、一人のアメリカ人が店に訪ねてきた。
その人は四十がらみの背の高い男で、オハイオ州からやってきて、名前をドン・アンドットと言った。
彼は貿易関係の仕事をしているようだったが、私の店にきた用向きは泥鰌が欲しいということである。
それも一匹や二匹ではなく、一トンである。
しかも生きている泥鰌を航空便でアメリカまで送って欲しいとの難しい注文である。
私は、まさかその男がアメリカで泥鰌料理店を開業するのだとは思わなかったので、目的を聞いてみると、魚釣り用の餌として売るのだという。
駒形どぜうは泥鰌を料理して売る店で、魚釣り用の餌屋ではないのでと断ったのだが相手はどうしても欲しいと粘るのである。
アメリカには泥鰌はいないのだろうか。
私はとうとう根負けして引き受けることにした。さあ、それからが大変、なにしろ当時はオハイオまで飛行機で三十時間以上もかかった時代である。
最低限、その時間内は泥鰌を生かしておかなければならないわけである。
空のドラムカンを何本も買ってきて、その中に水を満たし、泥鰌を入れればなんとかなるだろうか、そんなことをしたら莫大な運賃がかかるので無理なのである。
また、そのころは、今みたいにビニール袋に酸素を詰めて輸送すると行ったアイデアもなかったので、その日から、泥鰌との格闘がはじまったのである。
最初に目をつけたのがオガクズである。
これは現在でも車エビなどを生きたまま遠隔地に運ぶときに使われている方法である。
私はオガクズを知人から手に入れて水をたっぷり含ませ、その中に泥鰌を入れて様子を見たが、数分もしないうちに死んでしまったのである。
そこで考えたのが海綿。これはご存知のように細かな穴があき、やわらかく、よく水を吸う性質を持っている。
これをつてを通じて集め、淡水を十分に含ませて泥鰌を入れて、観察したのである。
海綿のソファーベッドに寝かされた泥鰌は気持ちが良かったのか三時間過ぎても四時間過ぎてもピンピンなのである。
私は「成功したな」と内心喜んだのだが、七時間過ぎた頃にはいっせいに死んでしまったのである。
原因は海綿が液体を吸収する性質をいかんなく発揮したからである。
七時間を経過したころになると海綿は泥鰌のぬめりや水分をすっかり吸いつくしてしまったのである。
つぎに考えついたというか、ひらめいたのが金魚を飼うときなどに使う藻である。
大急ぎで金魚屋さんに行き、藻を沢山買ったものだから、店の主人も「なんに使うんですか」とビックリしたような顔つきで聞くのである。
とにかくそうして買ってきた藻を水に浸し、泥鰌と藻をたがいちがいに重ね合わせ、蚕棚のようにして観察したのである。
十時間経過しても藻はみずみずしく新鮮である。泥鰌も藻の水分を適度に吸収して元気がいい。
そしてとうとう二十時間を経過、夜を徹して見守ってきたので家の外はもう明るい。
しかし、泥鰌たちはまったく元気で艶々として輝いているのである。
私はもう涙が出てしかたがないくらいにうれしかったのである。
さっそく観光と商用をかねて京都に出かけたドン氏の宿泊先に連絡をとり、店にきてもらった。
彼は私の成果を喜んでくれて、「いくら払えばよいか」と値段の話になった。徹夜などして苦労したのだから研究費も含めて相当もらってもおかしくなかろう、とは思ったが、日米親善のつもりで仕入れ価格の一割増という安値で手をうったのである。

  これにはちょっとしたエピソードがあって、空港でドン氏が手荷物検査を受けた際、
  泥鰌の分だけ制限オーバーとなりそのために彼が支払った金額は、
  何と泥鰌代の三倍に近かったのである。

そして、ドン氏が羽田空港から飛びたつ日に泥鰌を藻と一緒に空気穴をあけたいくつかの洋服の空箱に分けていれ、空港まで運んだのである。
空港では係員に箱の中身を説明したが相手はなかなか納得してくれなくて、箱を開けて調べると言う。
開けたらまた詰め直すのに大変だからと懇願し、『駒形どぜう』の名刺を見せてやっと了承してもらったのである。
その時に念をおしたことがあった。それは、洋服の空箱を飛行機に積む時には、絶対に箱を縦にしないで欲しいということである。
そのようにして、私はかわいいわが子を旅に出すような気持で飛行機が離陸するのを見守ったのである。
この話には後日談があって、結局、苦労して送った泥鰌もアメリカの空港に着いた時はほとんど死んでいたのである。
あれほど箱を横に積んで、縦にはしないでと頼んだのに縦にしてしまったのである。
それでは私の工夫したように泥鰌と藻がうまく重なり合わないのである。
かろうじて箱の底のほうで藻をかぶっていた数十匹の泥鰌だけが生き残っていたと、後にドン氏は説明してくれたが、その時の無念さは今でも忘れられない。
ドン氏から、再度、泥鰌を送ってほしいと頼まれたが、私はもうコリゴリでした。
# by komakata-dozeu | 2008-11-04 19:47 | どぜう往来

『どぜう往来』最新号のお知らせ

『どぜう往来』最新号のお知らせ_f0193357_17432370.jpg2008年秋 第100号

●百号記念随筆
 その1……
 永六輔氏  「コマカタどぜう」と「かろのうろん」

 その2……
 西村享氏  歴史の中の「駒形どぜう」

 その3……
 平松守彦氏 大分一村一品と駒形院内どぜう

●対談『いらっしゃいませ』
 百号記念ゲスト……竹下景子さん(女優)


『どぜう往来』は、年四回、季節ごとに発行しており、ご来店いただいたお客さまにお配りしている小冊子です。
# by komakata-dozeu | 2008-10-10 17:45 | 最新号のお知らせ

どぜう往来 創刊号 助七思い出話

どぜう往来 創刊号 助七思い出話_f0193357_17364170.jpg 大正十三年に三中(現両国高校)を出て、それ以来厳しい四代目の元で仕事を憶えた当主が、先代から聞いた話や、自らの約六十年間の体験から面白い話を短編にまとめてこれから連載致します。
 どぜう屋を通してみる世相の移り変わりや、どぜう屋を舞台に起こった出来事等、数え切れない思い出話をお楽しみ下さい。

五代目 越後屋助七(渡辺繁三)


第一話 「どぜう屋と剣豪」

 のっけから妙な取り合わせの見出しだが、どぜう屋を二百年近くもやっていると家系には変わり者も出てくるようである。
 私の祖父にあたる三代目助七などはその最たるものである。
 三代目は独特の工夫を凝らした「どぜう鍋」の生みの親として、どぜう屋を守ってきた掛け替えのない男の一人だが、若い頃から武芸が好きで、店の手伝いもそこそこに、毎日剣道場に通っていたようである。
 彼が入門したのは京橋浅蜊河岸にあった鏡心明智流の桃井道場である。
 当主の桃井春蔵は神田お玉が池の千葉周作、九段練兵館の齊藤弥九郎と並んで幕末三剣士とうたわれたほどの使い手である。
 三代目はこの道場でみっしり剣道を仕込まれたようで、その頃愛用していた刀剣もわが家にふた振り残っている。
 さらに彼は柔術も修業している。
 稽古に通ったのは、店の横丁を入ってすぐのとこにあった戸田流奥沢三造の道場で、安政四年(一八五七年)、三代目助七が二十五歳の時には師範代の次の目代の許しの巻き物をもらっており、これもわが家で大切に保管している。
 安政四年といえば、その二年前に江戸に大地震(安政大地震)がおこった後で、町は復興途上にあり、力を失い、気持ちの荒んだ浪人者もうろうろしていたのである。
 奥沢道場にも、このような食い詰め浪人が他流試合と称して何人もやってきたようである。
 帳場に座っているより武芸をしている方が好きな彼は、道場から助っ人を頼まれるとすぐに駆けつけて件の浪人者を苦もなく投げ飛ばしたという。
 こうした連中の無銭飲食やゆすり、たかりにはどこの飲食店も手を焼き、泣き寝入りをするほかなかったが、その点、どぜう屋だけはこわいものなしだったのである。
 いざとなれば三代目が「表へ出ていただきやしょう」とやって何人も大川へ投げ込んだのである。
 ある時、そのような喧嘩がもとで武士を大川へ投げ込み、訴えられて浅草寺伝法院の押し入れへ逃げ込んで十日間もかくまってもらったエピソードが残っている。
 三代目は武骨一点ばりの男ではなく、時には夜の街で三味線を弾きながら新内流しもしたという粋もある男であったと聞いている。
 彼は明治四年、三十九歳で没したが、その年、浅草寺の寺領が御上に取り上げられたのを知り、死の床で「お世話になった観音さまもお気の毒になぁ」といったという。
# by komakata-dozeu | 2008-09-30 22:02 | どぜう往来

「どぜう往来」とは

昭和五十八年三月に創刊した、『駒形どぜう』が発行する小冊子で、平成二十年十月の発行で百号を迎えました。年四回、季節ごとに発行しており、来店されたお客様にお渡ししています。
# by komakata-dozeu | 2008-09-30 21:57 | どぜう往来とは

ごあいさつ

いつも『駒形どぜう』をご愛顧いただき、ありがとうございます。
『駒形どぜう』とお客様を結ぶ小冊子「どぜう往来」は、昭和五十八年の創刊以来、長い間皆様に親しまれて参りました。その「どぜう往来」も平成二十年十月の発行で百号を迎えることができました。これもひとえに、皆様のお陰だと感謝いたしております。
そして今回、百号の節目に合わせて『駒形どぜう』と『浅草』の歩みについて、歴代の当主が「どぜう往来」に連載してきた記事を、毎月一話ずつ掲載していくブログサイトを開設させていただきました。
私共も、小冊子「どぜう往来」を通してお客様へ『駒形どぜう』と『浅草』の紹介と共に、どぜう文化の標として残して行きたいと願いつつ編集しております。これからもどうぞよろしくお願い致します。

六代目当主 渡辺孝之
# by komakata-dozeu | 2008-09-30 00:00 | ごあいさつ