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どぜう往来 四十号 [平成五年五月発行] のれんと柳 第四話 渡辺栄美(五代目夫人)

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私の二・二六事件

 プロ野球の公式戦が開幕してから一ヶ月あまり、長嶋茂雄監督が率いる巨人軍の人気が高いですね。私は野球のことはあまり詳しくございませんが、その道の通の人のお話によりますと、日本で初めてプロ野球の試合が行われたのが昭和十一年(1936年)二月九日だそうでございます。対戦したのは巨人対金鯱の両チームだったそうで、その試合を観戦した人々はさぞかし驚かれたでしょうね。

 私にとって昭和十一年は、別の意味で驚きと感動の一年でした。長男の義之が生まれましたのがこの年の二月二十六日で、この日は大変な大雪の日でございました。勘の鋭い人ならば、ピンときたと存じますが、そうです、あの有名な二・二六事件がおこった日でございます。近衛連隊の将校・兵1400人が斎藤内大臣・高橋蔵相・渡辺陸軍教育総監を射殺し、世間を驚愕させた事件で、数日後、抵抗を続ける反乱軍に向かって戒厳司令官が「いまからでもおそくない」とラジオ放送で帰順を説得致しました。この言葉は当時の流行語にもなって落語家などもよく駄洒落をとばしておりました。とにもかくにも、そんな状況下で長男は誕生したのでございます。

 二・二六の当日はちょうど出産予定日で、朝から陣痛がありました。それで荷物もいっさい持たずに四谷(東京新宿区)の川添病院に入院したのでございます。途中、陸軍省参謀本部のあった市ヶ谷軍用地(現防衛庁)のそばを通ったら沢山の兵隊がいるので、とても不安で失敗でした。それでもどうやら病院にたどり着き、その日の午後一時ごろには、無事に長男を産むことができたのでございます。その晩は大雪のためか停電になり、明かりはローソクだけの心細さです。しかも暴飲の看護婦さんも家族の者も、私を心配させるからとラジオもつけてくれなかったのでございます。私が二・二六事件のことを知ったのは翌日の新聞を読んでからのことでした。その時は、これはただごとではない…恐ろしい時代が近づいてくるのを予感したのでございます。病院には、二週間ほど入院していて、二・二六事件も一段落した三月上旬には親子ともども元気で退院することができました。

 それにしても昭和十一年は波瀾万丈の年で、昭和史の中でも特筆されるのではないでしょうか。労働者の祭典・メーデーが禁止されたり、阿倍定の猟奇殺人がおこったりと暗いニュースが多い反面、明るいニュースも生まれているのでございます。例えば、同年八月におこなわれた第十一回オリンピック(ドイツ・ベルリン)では、二百メートル平泳ぎで前畑秀子さんが優勝していらっしゃるのです。NHKのラジオ放送で聞いた「前畑ガンバレ」のアナウンスは、いまでも耳の奥底に残っていて、興奮をおぼえずにはおられません。さて、野球で始まったこの小文も残り少なくなりましたので、もうひとつこの年の十二月十一日に行われたプロ野球初の公式戦の話題で締めくくりとさせていただきます。戦ったのは、巨人軍対タイガースで、この試合で勝って優勝したのは巨人軍でした。
# by komakata-dozeu | 2011-12-01 10:50 | のれんと柳

どぜう往来 三十九号 [平成四年十一月発行] のれんと柳 第三話 渡辺栄美(五代目夫人)

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素晴らしい人との出会い ─嫁いだころのこと─

 私が主人(故五代目助七)と結婚したのは昭和十年四月五日で、満二十二歳でした。当時は映画でも歌謡曲でも新婚ものといわれる甘い作品が次々と作られ、大変な結婚ブームで、夕方東京駅をでて、熱海へ向かう列車は新婚列車と呼ばれるほどでございました。私も主人もそのブームにあやかったわけではないのですが、ハネムーンは東京からタクシーで修善寺・土肥など伊豆方面に三泊四日の旅程で出かけました。その後、数日間京都の実家で休養をとり、浅草の駒形どぜうへ嫁いで参ったのでございます。

 その頃の出来事で忘れられないことがございます。陸上競技の短距離走で有名な吉岡隆徳選手が百メートルで10秒3の世界タイ記録をつくったのです。私も女学校のころ、お転婆で陸上の短距離をやっていたのは、前号でもお話し致しました。それに女子陸上選手の草分けで、オリンピックにも出場したあの人見絹枝さんのご指導もいただいておりました。ですから、吉岡選手の快挙には人一倍の拍手を送ったのでございます。「私も新たな気持で頑張らなければ」と秘かに心に誓ったものでした。

 主人の母で、姑のたよさんのお話をさせていただきます。四代目夫人のたよさんは、埼玉県浦和市の豪農の出身で、長屋門のある1000坪の立派な家に生まれた方でした。なんでも江戸時代は大名の参勤交替の時の宿にもなったほどで、振袖が数えきれないほどあったといいますからさぞかし艶やかだったことでしょう。そんな豊かな環境でお育ちになったせいか、とても穏やかで円満な方でした。

 たよさんの趣味といえば着物をつくったり、古着を仕立て直したりと、お裁縫はとてもお好きで、お上手でした。私もお手伝いをするように言われたのですが、うまくいかず冷汗をかいてばかりおりました。たよさんのもうひとつの趣味は、摘み草をすることでした。後年、葉山にあった別荘に毎月一回訪れては、ヨモギなどを摘み、草だんごを上手に作ってくれました。そんな心やさしいたよさんも八人の子宝に恵まれましたが、終戦後、阿佐ヶ谷に住んでいた自分の子供(五代目助七の妹)に会いに行く途中、トラックにひかれ、それが原因でなくなってしまいました。あんなにも素晴らしい人に、今まで、私、会ったことがありません。とても悲しゅうございました。

 たよさんの夫で舅の七三郎助七(四代目)氏のお話を少しさせていただきます。四代目は駒形どぜうでは中興の祖として位置づけられるでしょう。十三歳まで年季奉公に出、三代目が三十九歳の若さで他界したために十四歳で元服して四代目助七となるのでございます。勿論、私は四代目のことを直接存じあげているわけではございません。昭和三年に七十一歳で亡くなっているわけですから、その後に嫁いできた私には知る由もないわけです。たよさんや、私の主人から伺ったお話をお伝えさせていただこうと存じます。

 四代目は妻のたよさんにも大変にやさしかったようです。八人の子供には一人一人全員に婆やをつけてくれたのでございます。それは、たよさんが子育てで体を疲れさせてはいけないと心配したからです。同じ理由からお店の手伝いもさせませんでした。主人(五代目)は、子供の頃から母親の膝の上に抱かれた記憶が全然無いと申しましたから、これは少し、可哀相な気も致したのでございます。酒もタバコも嗜まない四代目は、商才に長けておりました。財産形成の基本は商売・株・土地の三分法にあるとつねづね語っていたのでございます。そして得た利益で、妹には米屋を、弟には炭屋を経営させました。

 このようにして多額の蓄財を致しましたが、今でいう利益の社会還元も積極的に行いました。そのほんの一部をご紹介させていただきます。
● 明治十一年、公立学校費を寄付、東京府庁から賞状。
● 同十二年これら予防費を浅草区役所に寄付・東京府庁から賞状と木杯を授けられる。
● 同年新猿屋町の出火に見舞金寄付、東京府庁から賞状と木杯を授けられる。
 大正十二年関東大震災で駒形どぜうも全焼しましたが昭和三年再築が竣工し、無事開店しましたのも四代目の力に負うところが大きいのでございます。これが中興の祖といわれるゆえんです。
# by komakata-dozeu | 2011-11-01 11:00 | のれんと柳

どぜう往来 三十八号 [平成四年十一月発行] のれんと柳 第二話 渡辺栄美(五代目夫人)

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京娘の「東京駆けある記」

 私が駒形どぜうに嫁いできたのは、昭和十年四月五日のことでございます。ちょうど憲法学者の美濃部達吉氏が天皇機関説のため不敬罪で告発され、新聞の社会面をにぎわしていたころのことです。三百年以上も続く京都の白味噌醸造所の娘として生まれた私は、女学校(府立第二)を卒業後もずっと京都で過ごしました。ですから、私が女と知るとお客さんからよく「見知らぬ東京に嫁いできて不安だったでしょう」と聞かれることがあります。ところが「そんなことは全然なかったのですよ」と言うと相手の方は拍子抜けしたようなお顔をなさいます。

 女学校のころから私はとてもお転婆で、行動的だったのでございます。そのころは、陸上の短距離をやったり、バレーボール、バスケット、砲丸投げ、やり投げ、三段跳びと何でもチャレンジ致しました。それに、東京のこともかなり知っていたのですよ。私の長兄がお味噌の商いで毎月東京に来ていましたので、その様子はいろいろと耳にしておりましたし、私も一ヶ月ほど東京に滞在してほうぼうに遊びに行った思い出がございます。

 たしか昭和八、九年の頃でしょうか、東京ではヒザ下十五センチほどのロングスカートが流行しておりました。街を歩いているとどこからともなく軽快な東京音頭のメロディが聞こえてきて楽しい気分にもなりました。東京(牛込)の滞在先は、ある議員さんお宅で、そこをベースにして女友達三人と初めて地下鉄に乗って浅草に行ったり、銀座に行ったり致しました。

 なかでも、とても懐かしく思い出すのは、当時都内だけでも一万五千軒はあったと云われる喫茶店のことでございます。その頃は競うように大型喫茶店が次々と誕生し、大変なブームだったのですね。私も一ヶ月間、ほとんどと云っていいほど毎日のように銀座へ出かけ、ウインドウショッピングに疲れると喫茶店に入っては一休みし、友達とおしゃべりを楽しみました。銀座中のめぼしい喫茶店はほとんどと云っていいくらいに入りました。その証拠として必ず店のマッチをもらって帰るなど、ちょっとしたマニアぶりだったのでございます。

 それと私たち三人には、ある約束がありました。それは都内で道に迷った時は、必ず東京駅に戻ることでした。この駅を基点にして再度皆で次の遊びに出かける先を考えるわけです。そのような時によく利用させてもらったのが、当時、東京駅〜日本橋三越間を走っていた赤い巡回バスでございます。とてもハイカラなバスで乗ると心も躍るような明るい気持になりました。帰りはというと、これはきまって新宿によることでした。デパートなどを覗いたりした後は、中村屋さんに寄って、三人分のパンを買って帰るのが日課のようになっておりました。

 まだまた東京の思い出は沢山あります。ハーゲンベック(ドイツの曲馬団)を見て、その妙技に感動したり、湘南の海へ海水浴に行ったり、とにかく遊ぶのに夢中な一ヶ月間の「東京の休日」でした。このように東京中を駆け回りましたので、いわゆる東京アレルギーは無かったのでございます。次回は私が駒形どぜうに嫁いだいきさつについてお話しさせていただきます。
# by komakata-dozeu | 2011-10-01 10:00 | のれんと柳

どぜう往来 三十七号 [平成四年九月発行] のれんと柳 第一話 渡辺栄美(五代目夫人)

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題名の由来と連載開始にあたって

 題名の、のれんとやなぎのいきさつからお話し致します。のれんとは漢字で暖簾のことで、布に店の屋号を書き、店先に下げて日よけにするものですね。昨年、駒形どぜうの浅草本店が創業百九十年を迎えたおりに、その記念イベントとして作家でタレントの永六輔先生に記念講演をお願いしたことがございました。

 そのお話しの中で、永先生はのれんとは禅家で冬の寒い時期に隙間風を防ぐのに用いた垂れ幕がその由来で、これが江戸時代になって商家で部屋の温度を外に逃さないように使われたのが、今日のように広まったものだとおっしゃいました。さらに先生は、のれんとは商家のもてなしの心に通じるものです。とお話しになりました。

 この言葉に私はたいへん感動致しました。と同時にお客様のおかげで百九十年もの長い間、大切なのれんを守ってこられたことに心からお礼を申し述べたい気持ちになりました。題名の対のひとつにのれんとしたのは、もてなしの心をいつまでも忘れないようにと誓っての気持ちを表したものでございます。

 もう一方のやなぎは、柳の下に二匹目のどじょうはいないをシャレて、駒形どぜうには売るほどいますのよの意味もありますが、本当は柳に骨折れ無しの気持を表現したかったのでございます。柔軟なものは堅剛なものにかえってよく事に堪えるの例と国語辞典にはありますが、駒形どぜうの本店横にある柳も現在のが二代目ですが、長い間の風雪に耐えて、毎年、早春には緑鮮やかに芽吹きます。

 私も駒形どぜうに嫁いで六十年になりますが、このずっしりと重いのれんをやなぎのような柔軟でおおらかな心で、従業員や華族と一緒に力を合わせて守ってゆきたいと願っております。そこで、私はこの駒形どぜうで過ごした半世紀をひとつの区切りとして、表題のようなテーマで思い出の記を残しておこうと考えました。

 前々号(35号)で完結した助七思い出話は主人(故五代目)の目から見た駒形どぜうの思い出ばなしを綴ったものですが、その連れ合いである私の駒形どぜうの追憶記を合せ鏡にして、ぜひ皆さんに読んでいただきたいのです。私の追憶記は、三期に大別して書こうと思います。

〈第一期〉昭和十年〜昭和十五年
── 不安な予感の時代 ──
昭和十一年には二・二六事件、昭和十二年には日華事変が始まりました。日本はこれより太平洋戦争へと向かっていくのですがそんな不穏な時代に私は駒形どぜうに嫁いできたのです。

〈第二期〉昭和十六年〜昭和二十年
── 恐ろしい戦時期(太平洋戦争) ──
物統令公布、物不足、どぜう料理ストップ、雑炊食堂開始、東京大空襲、葉山へ疎開、そして戦争終結。
ピックアップした単語だけ見ても、あの暗い嫌な時代を思い出します。でも私には素晴らしいめぐり合いがありました。

〈第三期〉昭和二十一年〜昭和四十年
── 戦後の混乱期〜復興へ ──
仮店舗営業、葉山奮戦記、東都のれん会発足、「はとバス」スタート、柳川鍋誕生、本建築落成。
汗することの喜びと働くことの楽しさがありました。そんな中からいろんなアイデアも生まれました。以上のような構成で話しを進めたいと考えております。
# by komakata-dozeu | 2011-09-01 10:00 | のれんと柳

どぜう往来 三十五号 [平成三年十一月発行] 助七思い出話 五代目 越後屋助七(渡辺繁三)

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私の生まれたころ

 私が生まれたのは、ちょうど丙午にあたる明治三十九年八月十一日でした。丙午は昔から大火災や洪水が多く、厄年になると言われています。はたしてそうなのか、私は当時の世相が知りたくて文献を調べてみたら、いろいろと革新的な出来事が多かった年であることが分かりました。

 日露戦争の終わった翌年で、概して天下泰平でありました。それでも厄年を避けたい親心か、同年の女子の出生届数は前年の718,866人、翌年の799,941人に対して670,435人とかなり少ない。ところが、そんな迷信を嘲笑うかのようにこの年の女性の地位向上と元気溌刺さが特に目立つのです。例えば、同年の七月二十四日には、逓信省で女性を「判任官」に登用しており、同月には女学生の富士登山が顕著であると当時の新聞は伝えています。

 また、ちょっと変わったところでは日本一の婦人月給取のニュースも当時の新聞種になっています。当時の女子事務員の日給が四十銭前後だったのに比べ、華族女学校教学監の下田歌子女史は年俸で五千円もらっていたそうです。ちなみに、翌年の明治四十年には、東京の芝公園で日本で最初の婦人博覧会も開催されているのでした。女性の時代の幕開けとでも言えます。なお、女性とは特に関係が深いわけではないが、この年の十月二日の東京朝日新聞によれば、神田一ツ橋に「日本エスペラント協会」が創立され、月刊の専門雑誌も発行されて大変に流行したと伝えられています。

 それでは、その当時の駒形どぜうの様子はどんな風であったのか、フランス文学者の高橋邦太郎先生の「花園町雑記」から抜粋してみます。

「“牛鍋”が“すきやき”に格上げされて、いやにお高くとまっているのに比べると、われわれ庶民には“どぜう鍋”がいつまでも“どぜう鍋”であることがうれしい。(中略)…万事、庶民的なところが、しんみょうである。」と書かれています。

 また、明治四十四年発行、若月紫蘭著『東京年中行事』には「駒形どぜう汁」。

「雷門から南へ次の電車停留所が駒形である。そこの四辻の北の角が、音に名高い駒形のどじょう汁で薬研堀のそれと盛名を競うものである。その昔、江戸時代にはどじょう屋と云う看板を掲げたのは、上の二つと埋堀と中橋のそれとたった四つであったが、後の二つは今では廃業してしまって、残った二つの中でも殊に駒形のが知られている。暖簾をくぐって座敷に上がると、百年記念明治四十年十月と云う額が先ず眼につく。お客はどちらかと云えばもちろん中流以下が多いのであるが、生粋の江戸っ子や、その道の通人などの間にもなかなかお馴染みが少なくない。何はさて置き、値段の安いのが目っけもので、どじょう鍋六銭、どじょう汁一銭五厘、お酒七銭、御飯一人前四銭、半人前三銭と云うほかに、鯨汁二銭五厘、鯰鍋十五銭と云うのもある。従って鍋と汁とに飯と酒までつけた処が二十銭足らず、飯と汁だけですませばたかが六、七銭でことが足るので、飯時分前後になると、朝から車夫行商人を始めとして、色んな種類の人がエンヤエンヤと詰めかける。…」

 今も、昔もお客さんとは有難いものです。
# by komakata-dozeu | 2011-08-01 10:19 | どぜう往来