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どぜう往来 三十四号 [平成三年八月発行] 助七思い出話 五代目 越後屋助七(渡辺繁三)

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海外旅行の思い出(その二)

 前号でご紹介したように、二十三年前にメキシコへ最初の海外旅行をしてから、飛行機で海を越えるのがおっくうでなくなりました。いや、むしろ病み付きになってしまったといったほうが適切かもしれません。数えてみると昭和60年までに実に40カ国以上も海外へ出かけています。なかでも宝石の販売で知られる審美堂主催の海外ツアーには10回以上も参加しているのです。

 本来ならば自慢話のひとつやふたつもしたいところなのだが、残念ながら失敗談の方が多いのだから情けない。古い話で恐縮だが、20年ほど前にフランスのパリに行った時のことです。有名なシャンゼリゼ通りにある某フランス料理店に家内と二人で食事をしようと入ったのです。ところが出されたメニューを見て困ってしまいました。家内も私も英語ならば多少の心得があるがフランス語はチンプンカンプン。誇り高きフランス人はフランス語こそ世界一の言語であると自負しているせいか、英語は勿論、ましてや日本語などメニューに併記されているわけがないのです。

 私は、ままよとばかりに、これを全部下さいとボーイにメニューを指差しながらジェスチャー入りで頼みました。ボーイはちょっとけげんな顔をして私の顔を覗くように見ると、おもむろに「ウィ・ムッシュ」とか何とか言って店の奥に消えたのです。それから数十分もしたであろうか、ボーイが運んできた料理を見て私も家内も目を丸くしてしまったのです。何と!?スープばかりが三種類も出てきたのです。それも、私が今までに絶対に口にしたことのないニンニクスープばかりでした。生来、私はあの強烈な匂いをかぐと気持ちが悪くなるたちなのです。これにはまったく閉口してしまって家内も私もとうとう一滴も口にせずに、ただボルドーの赤ワインばかり飲んで、ほうほうの体で店を出たのでした。

 これには後日談があって、あまりにワインを飲み過ぎたせいか、具合が悪くなってトイレへ駆け込んだが小便が出ません。蒼くなって外へ出て、日本人のガイドさんに窮状を訴えたのです。そのガイドさんが大変に親切な人で、すぐに救急車を手配してくれたのでした。

 ところが困ったことがもうひとつありました。フランスでは救急車を利用するのは有料なのです。その日はフランスを去る日で、手持ちのフランを全部使い果たしてしまってドルしか持っていません。ガイドさんがほうぼう駆けずり回ってどうにか必要なフランを集めてくれて救急車に乗ることができたのでした。救急車の行く先は、パリ郊外の国立病院。さっそく医師に診察してもらったが、前立腺が不調らしい。このまま尿が出ないと入院しなければならないと言われ、私は覚悟を決めたのでした。ところが、注射をして、しばらくベッドに横になっていると運良く尿が通じ、入院せずに済んだのでした。

 人騒がせで、お粗末な一席、失礼致しました。
# by komakata-dozeu | 2011-07-01 12:00 | どぜう往来

どぜう往来 三十三号 [平成三年五月発行] 助七思い出話 五代目 越後屋助七(渡辺繁三)

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「海外旅行の思い出(その一)」

 ひと昔前までは、「海外旅行に行ってきました」というと、「どちらに行ってきましたか」「ぜひ、面白い土産話を聞かせてください」などと真顔で言われることも多くありました。ところが、いまは「ハァ、そうですか、どこへ行っても日本人が多いでしょう」で、まずは終わりです。話の接ぎ穂がありません。なんのことはない、相手も相当に海外へ出かけていて、事情通なのです。ことほどさように、今日は、海外旅行が日常茶飯事になりました。何しろ近年では、一年間に日本人で海外に出かける人が1000万人にも上るといいます。だからどうしたというのではありませんが、私も古い旅仲間のひとりとして、話の輪に加えて欲しいのです。

 私が最初に海外旅行に出かけたのは、今から23年前です。その頃の日本は、現在のような経済大国でもなく、どうにか中進国の仲間入りをさせてもらった程度の国であった頃。したがって、当時は海外旅行をする人はジャーナリストや商社マンといった限られた世界に人たちが多かったように思います。日本の国是も外貨を蓄えることが大方針のひとつであり、海外旅行をすることは、とても、もったいないような気がして、私には思いもつかなかったことなのです。ところが、そんなある日、私の主治医をして頂いていた東先生からメキシコオリンピック(1968年開催)に一緒に行かないかとお誘いを受けたのでした。

 東先生は当時JOCの委員もしておられた関係で、ご好意でお誘いくださったのです。私としては、どうしても無げにお断りすることもできず、家内とも相談して、思い切って出かけることにしたのでした。当時の為替レートで換算すると1ドルが360円で、一人300ドルの持ち出し制限枠がついていました。家内と合わせても600ドルで、今の貨幣価値に比較すれば大した額ではありませんが、当時としては大金でした。国是に反するような、もったいない気持ちもあったが、せっかくの東先生のお誘いもあることだし、渡航を決意したのでした。

 旅行スケジュールには、ロサンゼルスを経由しメキシコに向かうものだが、日程は10日間ほどです。私は、メキシコオリンピックには、さほど興味はなかったが、酒を研究していたので、本場のテキーラを飲んでみたいと思っていた。ところが、現地では意外な落とし穴があったのです。競技見物もそこそこに、市内をあちらこちら見てまわってノドが渇いたのでレストランでビールを注文し、2本ほど飲んだのだが、これがいけなかった。信じられないかも知れないが、フラフラに酔ってしまったのです。

 ご存知のようにメキシコは高地です。飛行機のなかでもお酒を飲むと酔いのまわりが早いように、高地のお酒は油断がなりません。メキシコ人がテキーラをキュッとあおるのを映画で見たことがあるが、慣れとはすごいものです。私はとうとう憧れ?のテキーラを一滴も飲まずに後ろ髪をひかれる思いで帰国したのでした。
〈つづく〉
# by komakata-dozeu | 2011-06-01 10:30 | どぜう往来

どぜう往来 三十二号 [平成三年二月発行] 助七思い出話 五代目 越後屋助七(渡辺繁三)

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「夢の東海道 弥次・喜多道中」始末記

 旅行ブームが続いています。成田空港から海外へ飛び立つジャンボジェット機は、いづれも満席で、よほど前から予約しないと席を確保するのが難しいようです。この傾向は日本の国内旅行でも同じで、特に近年では伊豆方面に出かける人が急増しているそうです。私の若いころは、修善寺が新婚旅行のメッカであったから、やはり流行は繰り返されるのかもしれません。

 旅行といえば、私も若い頃、一念発起して大旅行計画を立てたことがありました。コースは十返舎一九の「東海道中膝栗毛」で知られる日本橋から京都(三条大橋)までの東海道五十三次です。今の距離で計算すると、この間は492キロあります。この行程を歩いて旅しようというプランです。

 弥次、喜多道中のひそみにならうのだから相手が必要です。そこでお誘いしたのが、私が敬愛する久保田万太郎先生の弟、次郎さんでした。酒を酌み交わしながら話しているうちに、次郎さんもすっかり乗り気になって元気者の奥さんも連れて行くという。衆議?一決。早速旅支度にかかることにしました。東海道(旧道)に関する資料収集、戦時中から大本営の地図と評判だった五万分の一の地図、ローラー(距離計)などを集めました。資料を読んでみると、いろいろと興味深い話が紹介されています。

 たとえば、江戸時代の東海道の道幅は安政七年(1860)頃、幕府で作った「東海道宿村大概帳」によると、品川宿で三間(約5.3メートル)から五間(約9.1メートル)もあったことです。これは私の想像よりやや広い。では、江戸人の歩行ペースはどうかというと、これが実に早い。旅日記などを見ると、当時の人は江戸から京都まで一日平均約39kmも歩いているのです。里見八犬伝で知られる滝沢馬琴は、東海道の史跡を見物がてら京都まで一日平均25キロ以上も歩いています。また、女性連れでも一日平均23キロ以上も歩いたデータもあるから驚きです。

 私も若い頃はマラソンをやっていたので当時は足腰に自信がありました。ただ歩くだけなら一日20キロ程度は行けると思いました。しかし、名所旧跡を訪ねながらの旅だから一日平均15、6キロのペースで、全行程二十七泊で計画を達成しようと決めたのです。しかし、いくら何でも一ヶ月も店の仕事をなおざりにして、気ままな旅はできません。そこでこんな手を考えました。目標の地点までいったら途中でいったん店に帰ってくる計画です。

 たとえば、一泊二日のスケジュールで日本橋から小田原あたりまで歩き、目標地点まで来たら、そこから列車で東京に戻ってくる。そして、何週間かして、行きは列車で小田原まで行き、目標地点から箱根を超えて三島あたりまで歩き、またそこから列車で東京に戻るのです。この繰り返しで五十三次の旅を達成しようとしたのです。これなら商売に穴をあける心配もないし、体調に合わせて計画できるので楽だと考えたのです。

 全体計画がどうにかできたところで家内に相談してみたところ、あにはからんや反対されたのです。私の健康のこと、旅の途中での交通事故の心配。店の従業員に対する配慮などがあって、結局、店の大黒柱が休んでは大勢に人に迷惑がかかるからと言われて、やむなく断念したのでした。期待していた次郎さんご夫妻にはペーパープランに終わってすまないと思っています。いまでも、私にとって東海道は「夢街道」のゆえんです。
# by komakata-dozeu | 2011-05-02 11:00 | どぜう往来

どぜう往来 三十一号 [平成二年十一月発行] 助七思い出話 五代目 越後屋助七(渡辺繁三)

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「幻の“あじめどじょう料理”」

 鍋物のおいしい季節になりました。毎年、御酉様をお迎えする頃になると急に鍋料理が恋しくなりますが、当店でもどぜう鍋は勿論のこと、季節料理の「なまず鍋」を注文なさるお客さんが多くなります。

 そんなお客さんの中で、ときたま“どじょう地獄鍋”はありますかと聞かれることがあります。この地獄鍋の顛末については、本欄でも以前に紹介したことがあるので、詳しくはふれませんが、これはまさに、幻の料理なのです。四方山径の「たべもの風流帖」を読むと、「泥鰌の滋味」のなかでも地獄鍋についてこう書いている。

「煮汁を加減した鍋に豆腐を入れ、おもむろに小ど(小さい泥鰌の意)を投じる。跳ねて出ないように蓋をしっかりして置いてから、焚き出す。すると汁の煮えるにつれて泥鰌先生驚いて騒ぎ廻り、冷ややかな豆腐を発見して、泥中にもぐり込むような調子で、身を豆腐の中に尽き込み、熱さから避けようとする。しばらくはそこで過ごせるが、逐に豆腐も煮えて、ここに泥鰌の豆腐詰が出来上がる。」と書かれているが、私はなかなか信じないのでした。

 私が、密かに心のなかで「これはもしかしたら将来は幻のどじょう料理になるのではないかと期待?しているのが“あじめどじょう”の料理です。このどじょうに初めて出合ったのは、もうかれこれ二十年以上も昔のことです。淡水魚事典などであじめどじょうの生態を知り、興味を持った私は、家内を伴って岐阜県地方を旅したのでした。このどじょうの産地は、中部、近畿地方です。なかでも岐阜県の長良川、飛騨川では昔は沢山獲れたといいます。

 私が初めてあじめどじょうを味わったのは恵那市のある旅館でした。この旅館の夕食の膳に供されたのが、乾燥させたあじめどじょうを軽く焼き、特製のタレをつけて食べる料理です。臭みがまったくなく、素朴で淡白な味です。あっさりしているので日本酒の肴にもよくあうし、食べ飽きしません。いつまでも後を引く味といえます。

 このどじょうに土臭さが感じられないのは清流にすんでいて、しかも底石についている藻を常食しているからだろう。私も旅館近くの小川で獲れたばかりのあじめどじょうを見せてもらったが、普通のどじょうとはだいぶ異なりました。大きさはせいぜい7~8センチ、背中から尾びれにかけてイワナのような楕円形の暗褐色の斑紋があります。全体としては清流の河砂に似せているせいか、保護色で白っぽい。土地の人に聞くと泳ぎは苦手なようで、礫の上を這うようにして泳ぐのだそうです。私はその場で、スケッチブックを取り出してスケッチをしたものです。

 近年になって、ふと、あじめどじょうの例の料理をもう一度味わいたくなって、岐阜県の東京観光物産センターに問い合わせてみたが知らないというのです。無理もない。もう二十年以上も前の話なのです。若い人は知る由もないでしょう。

 かつては、踊り食い(生きたまま)や佃煮にして相当食したと聞くので、乱獲がたたって資源が少なくなってしまったのだろう。それに、清流を特に好む魚だから、河川の環境悪化も原因になっているかもしれません。ちなみに、韓国の南の慶尚道を流れる洛東江にもあじめどじょうと同種のものがいると聞くので、一度行ってスケッチしたいと思っています。
# by komakata-dozeu | 2011-04-01 10:30 | どぜう往来

どぜう往来 三十号 [平成二年八月発行] 助七思い出話 五代目 越後屋助七(渡辺繁三)

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「ナマズの話」

 駒形どぜうがナマズを売り始めたのは、四代目の明治の初期で、すでに百年になります。このナマズ、どじょうと同じでヒゲを生やし、なかなか愛嬌がある。ところがさにあらず、ナマズは昔から大変な暴れ者なのです。

 室町時代に描かれた「瓢鮎図」には、男が手に持ったヒョウタンでナマズを押さえて、地震が起こらないように念じている絵があります。また、安政二年の大地震の様子を記した「安静見聞誌」には、次のような記事があります。

「本所永倉町の篠崎某という人は、常に漁を好み、十月二日夜も数珠子(ずずこ)というものにて鰻を捕らえんと河筋所々をあさるに鯰(なまず)しきりにさわぎ鰻一つも得ず、ただ鯰三尾を得たり。さてつらつら思うに、かく鯰の騒ぐ時は必ず地震ありという、若しさることもあらんと、漁をやめ家に帰り、庭に莚をしき家財道具を取り出して異変の備えをなせり。その妻はいぶかりて、ひそかに笑いけるに、その夜地震あり」

 昔からナマズが騒ぐと自信がある、とはよく聞く話だが、果たして、ナマズに地震の前駆現象を感知する能力があるのかどうかを研究した人に畑井新喜司博士がいます。博士は一九三二年に、これを証拠づけるために、もっとも敏感だといわれる体長12センチのナマズを用いた。その結果、約80%の的中率で地震を予知することに成功したという。

 そして、ナマズがどうして地震の前兆で何物かを感知して暴れるのかを追求した結果、ナマズが感知するのは、おそらく地震発生に先立って変化する地電流だろうと結論づけたのです。ところが、魚の研究家として有名な末広恭雄博士によると、ナマズは地震の前駆現象に対しては、一応敏感だといえそうだが、天候の変化やその他の自然現象に対しても敏感のようだから、ナマズが騒いでも、必ずしも地震がくるとはいえない、とはなしているので、まずは一安心?

 さて、先の畑井博士が実験に用いたナマズは体長12センチの小型のものだったといわれるが、成魚は平均50センチほどにもなるので、このような幼魚は東京付近では俗にチンコロと呼んでいる。このチンコロが店の商売用のナマズにときたま、紛れ込むことがあるが、この小型ナマズを見るといつも思い出すのが甥の昭一郎なのです。

 昭一郎は、私にとっては最初の甥だったのでとても可愛がっていた。甥は(といっても、今は立派な壮年になっているが)この小ナマズが大好物で店に入った時は、必ずとっておき、特別に調理しては夕飯の膳に出したものでした。甥は、今でも私の顔を見ると、そのころの話を懐かしんでくれる。私はそんな楽しそうな甥の顔を見るのが好きなのです。

 小ナマズの話が出たついでに大ナマズの話をしよう。といっても、日本のではなく、ラオスとタイのメコン川の深みに棲むナマズの珍種プラプークです。雄の成体は平均して体長が2.43メートル、体重が163キロというから世界最大の淡水魚の仲間に入るでしょう。日本のナマズは小魚やカエルを食しているが、プラプークはどんなものを食べているのだろうか?こんな怪物は当店ではちょっとお客さまに出せないが、日本のナマズは十一月にはおめみえします。三枚に下ろしたナマズの肉と中落ちの骨、それにあごと頭の部分を、たっぷり味醂の入った醤油で飴色に煮て、これに焼豆腐を入れて煮ながら召し上がって頂きます。まずはお楽しみに…。                         
# by komakata-dozeu | 2011-03-01 10:01 | どぜう往来